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日本の医療を脅かすのは高齢者や終末期患者なのか?

落合陽一氏✖古市憲寿氏の対談に思う

· QOLと尊厳,オピニオン,メディア,社会保障

命の選別が行われ始めるのか?
危うい議論だと思った。

今をときめく二人の論客。
個人的には彼らの自由で合理的な発想が大好きだ。

しかし、今回の二人の対談の内容には、大きく2つの点で同意しかねる。

社会保障費を圧迫しているのは終末期医療費か?

古市氏は財務省の友人と細かく検討したことがあると発言しているが、高齢者の終末期の医療費が財政負担の主因でないことは、国内外の複数の研究によりすでに明らかになっている。

もちろん高齢者の絶対数の増加と医療費の伸びには関係がある。しかし、その多くは新しい薬剤や治療技術が高額であることから来ている。これらの恩恵を受けているのは、主に終末期ではない比較的元気な患者たちだ。

終末期医療は(特におそらく二人の発言が想定しているであろう老衰の進んだ高齢者の場合)実はさほどお金はかからない。これはレセプトデータを分析すればわかるはずだ。

 

死期の近いと予想される高齢者の多くは、全身状態が衰弱している。一般的には侵襲の大きい積極的治療(手術・透析・人工呼吸管理など)の対象外だ。多くの場合、姑息的治療または症状緩和が中心となる。かつて救急搬送された死期直前の高齢者に対する救命措置が問題になっていたが、このようなケースは現実問題としては限定的で、少なくとも人工呼吸器につながれて数週間生きる、などということは老衰の進んだ高齢者の場合にはきわめて稀だ。


また、落合氏が高齢者に在宅医療を選択するよう示唆してくれているのはありがたいが、在宅医療が医療費の節約になりうるのは、日々の健康管理が適切に行われることで、予測可能な急変が回避され、救急搬送や急性期医療が最小限に抑制できた場合だ。在宅で療養していても、終末期に近づくにあたり要介護度は上がっていく。入院療養に比べて医療費は安く済むが、介護給付は増えていく。トータルの社会保障費の支出はそんなに大きくは変わらないと予想する。

 

いずれにしても、高齢者の最期の1か月の医療を保険適応外にしたところで、社会保障費の伸びの抑制は微々たるものということは明白だ。

高齢者の終末期医療費が負担になっている、というのは前提条件として明らかに間違っている。

むしろ終末期に医療費が高くなるのは、積極的治療の対象となる若い人たちであろう。

たとえば、急性心筋梗塞で緊急入院となり、開胸手術が行われ、人工心肺装置を使いながら集中治療が行われるも、結局、死亡してしまう。例えば、このような場合は死亡前の1か月で1000万円を超える医療費を使うこともある。

しかし、亡くなる前の1か月で医療費がかかるから、という理由で、このようなケースの治療を中止すべきだろうか。

助けられる命を助ける。そのために医学は進歩してきた。その最前線は、まさに生死の分かれ目であり、そのラインの手前で積極的な撤退をすることは、将来の多くの救える命を失うことにはならないか。

昨年6月「米国において問題視される終末期医療費だが、死亡の大部分は予測不能であり、多くの場合、誰が終末期なのかわからない。従って、終末期医療は医療費の無駄であると考えるのは間違いであるという内容の論文がScience誌に発表されている。

Predictive modeling of U.S. health care spending in late life Science 29 Jun 2018

「終末期に対するトリアージ」は許されるのか?

落合氏は、災害時のトリアージが国民的理解を得られているとした上で、終末期に対するトリアージを議論すべきとしている。しかし、災害時のトリアージと終末期は根本的に異なる。

災害時のトリアージは、その時点で救命の可能性が著しく低いケースに対し、絶対的に不足している医療資源を優先的に配分できない、という意味において受け入れざるを得ない状況がある。

落合氏の「終末期に対するトリアージ」が意図するところは、重要な医療資源である社会保障財源が有限であるという前提において、あと1か月で亡くなるであろう人たちの終末期医療に貴重な健康保険の財源を配分すべきでない、という意図だと思われるが、これは2つの意味において適切でないと考える。

一つは「終末期」という言葉の定義が、非常に曖昧なこと。

そしてもう1つは、経済力によって「いのち」という人生においてもっとも重要なもののあり様が左右されること。

「終末期」とは、以下の三つの条件を満たす場合をいうとされている。
(※「終末期医療に関するガイドライン」 平成28年11月 公益社団法人全日本病院協会)
1.複数の医師が客観的な情報を基に、治療により病気の回復が期待できないと判断すること
2.患者が意識や判断力を失った場合を除き、患者・家族・医師・看護師等の関係者が納得すること
3.患者・家族・医師・看護師等の関係者が死を予測し対応を考えること

第一項「治療により病気の回復が期待できない」という定義を厳格に運用すれば、実は多くの慢性疾患はこれに当てはまる。悪性腫瘍や神経難病のみならず、認知症や生活習慣病、老衰も治癒はしない。

もちろん、第二項を見るかぎり、本人が「まだ自分は終末期ではない」と宣言できれば、終末期にはならない。

しかし、患者さんの中には、自らの意思を言葉にすることができない人もいる。また世の中には社会保障に依存して生きている人たちが、「まだ生きたい」という意志をそのまま言葉にすることがはばかられるような圧力が確実に存在している。

古市氏は同じ文脈の中で、日本人は7割が安楽死に賛成しているという2010年の朝日新聞による世論調査の結果を引用しているが、まさにこれこそが「社会的圧力」だ。この7割の日本人のうち、どれほどの人が本当に安楽死について考えたことがあるのだろうか。自分がそのような決断を迫られる状況を想像したことがあるのだろうか。多くの人の人生の最終段階に向き合ってきた一人の在宅医として、強い疑問を感じる。

 

終末期において治療の差し控えを含めた選択の権利は保証されるべきだ。安楽死に関する議論もあっていいと思う。

しかし、それは、誰もが自分の本当の意思を、はっきりと表出できることが保障されているという前提が絶対に必要だ。

日本の社会は、終末期に対して、まだそこまで成熟した議論ができる状況にあるとは思えない。

そして、治療の差し控えや安楽死を議論する前に、死を選ばざるを得ないような苦痛(社会的圧力・経済的圧力を含む)を取り除くための最大限の努力がなされているべきだ。

社会保障は何のためにあるのか?

医療の役割を究極的に表現すれば、それは「延命」だ。

病気をコントロールすることで生存期間を伸ばしてきた。それが医療の歴史だ。

どこまでの延命が合理的なのか、それは財源が決定するものなのだろうか。

自分自身で人生が選択できる。そして納得して生き切れる。

これこそが医療の存在意義と僕は思う。

医療がなければ生きられないという理由で、生きていく権利を脅かされることは絶対にあってはならないし、それは医療にとっては自己否定そのものだ。

財源が足りないのは事実だ。

持続可能な社会保障制度を維持するためには、当然、相応の負担が必要になる。政治家は、国民に社会保障財源の現状をわかりやすく説明し、負担と給付のバランス感覚を持ってもらえるよう努力すべきだ。長期安定政権の今こそ、タイミングとしては最適なのではないか。

 

支出の最適化にむけての努力と工夫も必要だ。

特に小児期の貧困や栄養・教育などへの支援は、より費用対効果が高いと考えられているが、現状の社会的支出は非常に乏しい。また、高齢患者に対するポリファーマシーや入院関連機能障害、そして望まぬ延命治療の回避など、医療面でも改善できる課題は数多く存在する。

これらの医療や介護・福祉の最適化の結果として、社会保障費が節減されるというのが順序としては正しい。

この意味においても現場の専門職が負うべき責任も大きい。

 

必要な財源を確保するという議論を、命を選別する作業にすり替えてはならない。

社会保障とは、誰もが安心して暮らし続けられる社会を守るためのもの。社会保障が弱者を切り捨てるのであれば、それはもはや社会保障ではない。

自分で死ぬことが選択できる社会が幸せなのか?

それとも誰も強要される死に怯えることのない社会が幸せなのか?

一人ひとりが、自分自身の問題として考えるべき問題だと思う。