多死社会を迎える日本。
国民一人ひとりが「幸福な最期」を選び取るために、医療・介護・まちづくり・企業はどのようにあるべきか。
経団連会館 国際会議場にて開催された日本総合研究所50周年記念「次世代の国づくり」シンポジウムにて、講演の機会をいただきました。
日本の人口構造がドラスティックに変化していく中、医療介護だけでなく、地域も職域も、それに応じた形に変化していく必要があります。高齢化への対応という意味では、地域のほうが職域よりも少し進んでいるのかもしれません。会場のビジネスパーソンの方々は、僕や下河原さんの「いつもの話」を、驚きをもって受け止めてくれたようでした。4時間近いプログラムでしたが参加者の集中力も素晴らしく、とりあえず、一石を投じる、というミッションは果たせたように思います。
日本では多くの方が、自宅で最期まで生活が続けられることを願っています。
しかし、現状、死亡場所の80%は病院。在宅死は10%台前半。しかもその約半分は警察による検案死であると言われています。
死亡場所の希望と現実のギャップがここまで大きい国は、OECD加盟国の中ではほぼ最悪です。
日本人はなぜ自宅で死ねないのか。
その理由は、医療との付き合い方が下手なことにあるのではないかと思います。
死ぬまで治療を続けるから、病院で亡くなるのです。
なぜ死ぬまで治療を続けなければならないのか。
「一分一秒でも長く生きていたい!」そういう人生観や信念をお持ちなのであれば、私たちはそれに応えるべく最善の努力をします。
しかし、最期まで治療を続ける方の多くはそうではありません。
もうよくならないのはわかっている。だけど、治療をやめていいのか、いつ治療をやめればいいのかがわからない、決断できない。そんな方が大部分なのです。
これは患者サイドだけではありません。医療者サイドにおいても、治療を終了する、治療をしない、という選択をしない、できない、という医師は少なくないと思います。
しかし、私たちはいつか必ず死にます。
治らない病気や老衰によって、私たちの心身の機能は徐々に低下し、身体の恒常性を維持できなっていくのです。
多くの方は、身体が弱っていくと、医療への依存は高まっていくはず、と考えていると思います。
しかし、これは逆です。
人生が最期に近づけば近づくほど、医療でできることはどんどん少なくなっていきます。
そして、積極的に医療をしてもしなくても、残された時間が大きく変わることはありません。
医療依存度、医療の役割は、むしろ低下していくのです。
かわりに増大していくのが、ケアへの依存度です。
たとえ病気が治らなくても、死が近くても、その人の命が続くかぎり、安心して生活ができること、納得して人生を送れること、それを支援するのがケアの役割です。
看取りとは、最期までその人が生活を続けるということであり、その結果として場所で旅立つということなのだと思います。
尊厳とは、自分の人生を自ら選択できることだと思います。
その人の人生に最期まで伴走できるのは、その人の生活を面で支えられるケア専門職をおいて他にないと思うし、ケアする人たちが自信をもって最期までケアに取り組むことができれば、多くの国民は、自らの判断で「幸福な最期」を選択できるようになるのだと思います。
僕らは、ケアする人たちが自信をもって自らの使命に向き合えるよう、しっかりと後方支援をさせていただきたいと思います。